あくまで、私の場合。
それは、家族で食卓を囲む時間が、苦痛だったから。
ウチは、嫁姑の仲が悪かった。私は、どちらにも良い顔をしていた(つもり)。だから、その2人がそろう、食卓の場がつらい。その場はニコニコしてるけど、お互い陰では悪口を言っている。気をつかう。私はうつむいて、ご飯を飲み込む。
農家で大家族で、一度に全員は食卓に入れない。私はできるだけ時間をずらして食べる。
食事は、楽しい場ではなかった。食べ物の名前も、知らない物が多い。興味なくて覚えられない。例えば、鶏、豚、牛等の肉の違いは、最近分かってきた。
嫁姑(母と祖母)、どちらにも幸せになってもらいたいのに、何も出来ずに過ごす毎日も、つらい。生きるのが苦痛、楽しくない(死にたいわけではない)。
美味しそうに食べるということは、生きたい願望が強い人みたい。と、思ってしまうから、美味しさを求める気持ちが湧かない。栄養を口で味わって摂る構造じゃなければ良かったのに。なぜ、こんな構造なのか。
考えれば考えるほど、人間の栄養摂取の仕方は、団欒をとるためだとしか思えない。口で食べるから、食べる姿を隠せない。手のひらとかお腹とかに、栄養の取り込み口があったら、こっそり早弁なんて当たり前。と言うか、作業を中断しなくても摂取できる。
味覚がなければ、食事は呼吸と同じで、誰かと共有する事柄でもない。
でも、口で味覚を通して食べるから、作業を中断……しないまでも、食事に意識を回すことになる。
食事って、奥が深い!壮大になってしまった?
とにかく、そう言うわけで、食事を楽しむ気がないから、味覚は発達しなかったんだろう。と、言うことでした。